こういうのは腹立たしい、という話。

今からする話はあくまで自分基準ですからね。これ重要。
まあ曖昧というかデリケートな問題ですからねえ、こうした事柄は。あくまで「そう感じる」が基準なので、線引きが難しい。「これくらいなら大丈夫だろう」がダメだったり、良かったり。でも概して、大丈夫だろうと思ってる時点でアウトなケースが多いですけどね。「セーフと思ってる」ってことは「してることを自覚してての、自己判断の末のセーフ」ってことですから。してることには変わりないわけですよ。このあたり巷のアレな方々が陥りやすい罠。あげく私基準は激低いので、常々我慢ならんなあ、とか思ってたり。
別に「だから改善してください」と言いたいわけではありません。「そんなこた、てめえに言われたくはねえよ!」って感じでしょうし。私はこういうのが嫌いだから、色んな意味で「極力避けるようにしてます」っていう主張。とても心狭いです私。もう我慢だけしているのには疲れました。


とか色々と前置いてみましたが、ただブツクサ言いたかったから綴る。それだけ。
自分のブログがあるってとてもステキなことですねえ。(間違い)
思うままに綴っているので、非常に取り留めないです。
お詫び。
語調も普段より汚いかもです。
これまたお詫び。



さて。



ゲーム中に他人(参加者か否かは問わず)によって繰り出される最善手の解説(講釈)ほどオモシロくない話はないです。そう、アドバイスとは根本からして異なるアレですよ。俗にいう「口出し」ってヤツ。
こういう時はこうするのが・・・・
この状況ではコレとソレとアレができるけど、でも・・・・
それはダメだからこっちをああしたほうが・・・・
一般的にはこうした場合・・・・
ウザ。
いや、もういいから。それ以上言うな。
「定石」も「セオリー」も知らんです。いつからそんなことを覚えなければ遊べなくなったのかボドゲ。そんなにハードル高い遊びだったんですかね。「一般的」かなんて知ったこっちゃない。大体、一般ってなんだ。どこからが一般なのか。一般のボドゲ戦略なんていつ成立してたのか。
君の見解を聞きたいときはそう言います。どうしたらいいかわからなければ助けを求めますって。私にはその為の口がついてますからね。でも「その時」以外は要らんのです。培われた戦術論など聞きたくもない。
口出された瞬間にもう、私なんかはウゲってなります。またとうとうと説明されるんですよ、これまた。もうね、憂鬱で億劫でゲンナリ。色んな意味で楽しさ奪われて、さらにゲンナリ。いやはや、ゲンナリ尽くしですな。
いや、一言も喋るなということではないですからね。そんな極端な捉え方するなんて大人げない。ボドゲからコミュニケーション部分を取っ払ったら、途端に魅力は激減しますから。でも、話し方ってあるでしょう。もっと楽しくやれるような言い方も。肩肘張らない気楽なやりとり、そこから生まれるゲーム的な機微やら攻防やらを私は望んでいるんです。
たしかに。
明らかに見落としがあって、そのままではゲームが壊れたり、完全にそのプレイヤーが脱落してしまうような局面もありますよ。もう、なんとしてでも言わざるを得ないような。でもいつだってそうではないんです。そんな危機的状況はそうないはずなんです。いつもそんな危機まみれだなんて、どんなキワキワなバランスのボドゲなのかと。どんな罠かと。
そんなゲームは知った人間だけでプレイすればいいんです。少なくとも私はそんなのには参加しませんし、参加したつもりもありません。今時のゲームはプレイヤーに親切なので、心配はご無用。キワくなくてもオモシロのゲームは山のようにありますから。


ところで。


当ブログのメインであるところの大量の所感。
その中にはシステム的な話だの戦術的思考についてだの、ゲンナリするくらい偉そうなことをグダグダ言ってるものもあります。っていうか、結構ある。いや、ほとんどそうか。えらいこっちゃ。
で、きっと私を知らない人は一緒にボドゲをすると長々と戦術を語られたり、説教されるんじゃないかと思っている人も少ないないはず。そりゃもう延々とボドゲ知識を解説されるんじゃないかとか。うわ、ヤベー、みたいな。
イメージ恐るべしという話ですが、普段は決してそんなこたないです。まあ、自分で言っても信憑性ないかもですけどね。
普段、ゲーム中はそういうことにはほとんど触れません。むしろ関係ないことばかりを勢いでギャーギャー叫んでる感じのスタイル。ゲーム外だってそう。せいぜい聞かれたことに答える程度です。詳しく説明したり、解説したりするだなんて、とても。
っていうか大体、「説明」って面倒じゃないですか。まして、聞いてもないことを聞かされる苦痛を知ってるわけですし。ダブルな理由で説明を拒否ってます私。
私にとって「所感を綴る事」は、「ボドゲを遊ぶ事」とは一線引かれてまして。ネット上とリアルでは根本が違うといっても過言ではないです。PCを前にしてキーを叩いているときは、完全に一人で鬱々とした世界ですよ。取りとめない思考の海に身を委ねて、それをカタチにすることだけを楽しんでいるというか。リアルではそうじゃない。ボドゲだけに絞って考えてみても、浸っているわけにはいかないのです。求められているのは自分との対話ではなく、他者との会話。口出しは会話しているように見えて、実はやっぱり「一人の世界」ですからね。自分ルールの押し付けにも似た。
大体、所感を大量に垂れ流したところで、読む読まない、信用するしないの選択権はモニタの向こう側にあるわけですし。だからこその気楽ぶり。ギリギリまでグダグダ言いまくってるんですよね。私のブログから情報を得ることは全くの自由。決して強制ではないわけですよ。
でもこれがゲームをしている相手だったりすると逃げ場なく、話を「聞かされてしまう」し、むげに「うるさい黙れ」とも言えないわけですよ。出来ることといえばせいぜい聞き流すことくらい。テキトーにフンフン言ってみたりとかね。嫌になったからって途中退場するのはさすがに失礼ですし、あまりに大人げない。最初からその危険がある場合には不参加を決め込むというのも手ですけどね。よくやります私(笑)。
でもなんであれ、どうやら受け手側被害のほうが多いと思うわけですよ。ちょっと不公平だと思いませんか。タバコにおける受動喫煙なんかと同じように、高らかに謳う講釈師によってこうむる被害は計り知れないというか。
ああいう口出しをしようっていう思考は、一体どこから湧き上がってくるんですかねえ。善意なんでしょうか。「教えてあげてる」くらいのていなんですかね。親切心の産物? いい迷惑ですが。それとも相手が最善を尽くさないと、ゲームがオモシロくないよ、手応えもなければ勝つ喜びもない、くらいの感覚なんですかね。まあ、最善手を打ち合えば相乗効果的にゲームが白熱するかもしれませんが、もっと「別のやり方」でもゲームは白熱したり盛り上がったりすると思うんですけどね。
大体、そんなに自分が思うようにゲームが進むべきだと思うのなら、一人でソロプレイでもすりゃいいんですよ。全部思い通りだし。自分のボドゲ戦術論の真価が問われるってもんです。


私はもともとヌルゲーマーですからね。他の参加者の厳しい手にアワアワしてばかりですよ、いや本当。基本的に検討することが嫌いですし。見当で遊ぶのが好き。(上手いこと言った)
何かゲームが進展したら、意味があろうがなかろうがとりあえず「えーっ」とか「マジでー」とか言ってみてます。だって、その方が楽しいから。いいじゃないですかそのくらいの理由でも。私ごときには何が最善とかわかるはずもないので、しょっちゅうアタフタしてますよ。「これがよさそう」が決断の基準。最善手なんてそんなもんでしょう。しっかり検討しようが、テキトーだろうが、結局は「これがよさそう」。絶対なんてないんですからね。
最善手の検討をしっかりする人とかエライと思いますねえ。本当に勝ちたいんだろなこの人、って思う。そのための努力を惜しまない人なのだとも。私は脳みそがつんつるてんなのでボンヤリしがち。考えがまわらんのですよ。だからいつまでたってもヌルいゲーマー。でもそれぐらいがちょうどいいとは思ってますけどね。


まあ、いいや。


だから長考も嫌い。押し黙って考え込んだり、ブツブツ言いながら盤上を数えたり確認したり。他人が介在して成り立つ遊びなのに、なんだそれって感じ。一人で悩みたいなら(以下略。
もともと、私は「最善手を探す」時間というのと「どうしたらいいのか、見当がつかずに悩む」時間というのは違うと思っています。私はほとんど長考というものをしませんが、たまにしたとしても後者。わからないし、で、他人を待たせるのも好きではないので、申し訳ない気持ちで一杯。ワーワー言いながら困りますからね。どうしたもんだー、みたいな。
あ、今わかった。
私が考える「長考」って概念は、「他人のことを気にせず、待たせているという意識も薄く、申し訳ないって気持ちすらなくて、至極当然に考えこんで検討する」ってことだ。そうだ、そうだ。
その時たしかに、長考者は違う時間軸へと移行してますからね。こちらはもう置いてけぼり。
根底には、不完全な思考で不完全な手を指すことに嫌悪感ってのがあるのかもしれません。やるからにはなんでも真剣、満足いくことしか選択したくないんだというような。ある意味、完璧主義者なんでしょうな。とても独善的な思考の上に成り立ってますけどね。
あー、もうイヤダイヤダ
っていうか、話が早くも漠然としてきたので、「長考」による弊害を実例をあげてみましょうか。
例「私が考える長考被害」
楽しさ100のゲームがあったとして。その日のプレイは2時間かかったとしましょう。そのうち40分が「長考」によるものだったとして。
その時点でそのゲームの楽しさは私基準で60くらいになってます。もっと早く終わってたら別のゲームも出来たなあという思いと、長考に対するイライラとで。もちろん「長考」を生んだ人は楽しさ100ですよ。そりゃね。
仮にその「長考」を阻止できたなら、そのゲームの楽しさはもちろん100。まあ、負けた分の悔しさフィルターを通して90だったとしましょうか。で、長考の時間分で別の40分ゲーを遊んで、これがまあ凡庸なゲームで70、また負けて60くらいだったとしても、同じ二時間で楽しさ合計150ですからね。1ゲーム2時間の60と比べれば2.5倍です、2.5倍。
ああああ。楽しさが奪われているっ・・・・!!
そんなことを考え出したらもう、私は是が非でも長考を食い止めるべきだと思うんですが、どうでしょうかね。



なんだか綴るのが面倒になってきたので、急激にまとめに移行。
もうね、とにかくですよ。
長考反対。口出し反対。
とても受動的被害なだけに、で、人間関係を気にすると「言いづらいなあ」という問題なだけに。


「世界から戦争なくなれ!」くらいの勢いで、
私はこれらが無くなることを祈っています。(オオゲサ)