ふと思って。

唐突ですが。
私は頭が悪いので考えをまとめることが非常に苦手です。と、思い切り放り投げておいて。
ゲームが面白いっていうのは間違いない。でも自分が手に入れることができるゲームには色んな意味で限界があることに気づいて、近頃では収集の速度が落ちつつあります。とはいえ。飽きっぽい私ながら、ゲームとやらはかなり私を虜にしているといいますか、体を蝕むといいますか、息の長い趣味となりそうな確信があるのですが。
最近、人づてにとんでもない話を聞きました。収集することその数4000。古今東西のゲームを買い集めては遊ぶという剛毅な人の話です。半ば義務感もあって集め続けているらしいのですが、「普通に面白いゲームはいくらもあるが、本当に面白いゲームは少ない」と考えているそうで、意外にも所有する膨大な自身のゲーム達には価値を感じていないのだそうです。
私は、まだ見ぬゲームには必ず新たな面白さがあることを知っていますし、その事実に気づいてもいます。なぜなら自分がまだ遊んだこともなければ、「その感覚」を知ることもないからです。少しでも情報を知れば過去の経験から推測することはできますが、それはもちろん本質ではないので裏切られることが大半です。それが、遊んでみたら「意外に面白いね、これ」であったり「案外、ダメゲーだ」だったりします。当然、そうして裏切られたい自分がいることも否定はしないですが、私にとって「新しい」はそれだけで非常に魅力的です。
例えば。私の家の棚に並んでいるゲームは「色褪せない面白さ」はあっても、魅力に欠けます。いや、欠けていると思うことがあります。「新しく」ないからです。でも間違いなく「面白い」ことを知っています。でもどうにもそれは忘れさられがちなのでどうにかしようと考えた結果がこの備忘録でした。私だけかもしれませんが、自分が綴った文章だとしても、後からそれを読み返すとまるで他人事のように感じるのです。自分の記憶が切り離されているものだから、それは常に「新しく」思えて魅力的です。そして、それは「色褪せない」。
もちろん「新作」には魅力を感じます。同じように魅力を感じる人も少なくないでしょう。だから私はそのきっかけを得ることができます。それゆえにことさら追いかけることをしません。また、私は新たなゲームを発掘することに意欲的です。知らなかったゲームを知ること。時にそれは時間を遡ります。私は、先達の「新しい」を自分の「新しい」に置き換える作業が好きです。時折「面白さ」がないがしろになっていることもありますが、概ねその結果には満足しています。でも、知らないを知ることはとても労力のいる作業です。なにせきっかけも何もないので、眠っている興味をたたき起こすところからはじまりますから。
もし、そのきっかけを生み出すことができたら。内容はどうあれ、0ではないだけイイと思うのですが。断片的な記憶が集まって、一つの思考を形作ることもあるでしょう。ここまできたらインスピレーションの世界ですよ。たった一言、ゲームについての言及があれば、それは「既知」にとって非常に有益だと思うのです。知らなければ知りようがない。・・・ここ、重要ですね、個人的に。